そばの思い出
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そばが「ごちそう」だった頃
昭和20年代末、戦後間もない頃、石垣の街に出てそばを食べて映画を観るのが島人にとって最高の贅沢でした。
そば屋に連れていってもらえると聞いただけで子どもながらに胸を弾ませたものです。そばとはそういうものでした。
遡って昭和初期・大正期も、そばはごちそうだった、と古老も口を揃えます。
ごちそうだった理由
そば造りは労を要しました。まず、麺造り。
小麦粉を木灰汁の上澄み液で丁寧にこね上げ、麺棒でのばし、包丁で適度な幅に裁断し、しばらく寝かせた後、茹でて、油をまぶします。
また、スープは島豚の赤身肉や骨をダシにじっくり煮込みます。
薪を使っていた当時は、一日仕事です。多忙な庶民の家庭で、日常的にこのような手間暇をかけることはできませんでした。
また、豚肉は貴重でした。祝いの席や年中行事などでしかお目にかかれない高級食材でした。アメリカ軍の配給のあった戦後の一時期を除いて、小麦粉が豊富にあったとも考えられません。
こうした事情から、そばは庶民には滅多に食せない「ごちそう」だったのです。
ところが今や・・・
時代は変わりました。今や大量生産・大量消費の世の中で、島そばは沖縄ファーストフードの代表選手です。
かつて市内に軒を連ねたそばだけを扱う専門店は近年めっきり少なくなりました。
さらに、観光化の影響か、そばそのものも多様化したように思います。
麺の形状、風味、だし汁からトッピングまで、八重山そばはすっかり様変わりしていると言っても過言ではないでしょう。
昔風そばに立ち返って
私たちは、このような現状を捉えつつ、市内で数少ない「八重山そば専門」の看板を掲げました。
原点に立ち返り、「ごちそう」だった頃のそばを追求したいと思います。
当店では、専門店の名に恥じぬよう、麺・スープ・具のみならず、香辛料のピパーズまでこだわりました(詳しくは こだわりをご覧ください)。
どうぞ、ご来店の上、当店のそばをご賞味ください。スタッフ一同お待ちしております。
石垣本店代表・新垣 重雄(あらかき しげお)
1948年生まれ、宮良村出身。古謡(ユンタ・ジラバ・アヨー)の音源蒐集・演奏が趣味。FMいしがきサンサンラジオの番組「島唄への誘い」(初回2007年11月23日~最終回2014年10月10日)の案内人を務めた。
(大震災チャリティー「島唄コンサート」 2013年9月28日 石垣市民会館中ホール)
八重山民謡の第一人者 大工哲弘氏より
大工 哲弘(だいく てつひろ)
1948年生、石垣市新川出身。八重山地方に伝承される多彩な島唄をこなし、八重山民謡の第一人者としての地位を築いている。
1998年沖縄県無形文化財(八重山古典民謡)保持者に指定される。
オフィシャルサイト 大工哲弘 南風ぬイヤリィ
親父の手伝いをしていた幼少の頃、年に二回の稲収穫期に村の青年達がユイマ~ル(※1)。
収穫を終えブガリノ~シ(※2)に出てきたスバ(※3)を先輩達と一緒に美味しく頂いた昔を、「島スバ一番」のスバを食べる度に思い出す。
多様化される沖縄・八重山のスバであるが、「島スバ一番」の出汁味、昔ながらの平麺切りでコシがあって歯ごたえの良い麺、さり気ない具、どれも伝統的な麺技は正に僕の故郷・石垣島のスバ一番である。
優しい味は、きっと食べた人達の日頃の疲れ、旅の疲れを癒してくれるであろう。
※1 農作業などを村落内で相互に手伝い合う慣習。
※2 疲れ治し。慰労会。
※3 沖縄の方言で「そば」の意味。